バリケード
下のとりとめもない文章は、沖縄へ一人で旅をしに行った際、行きの飛行機がWi-Fiの通っていないLCC機だったので、暇つぶしにここ最近考えていたことを文章化したものです。脈絡のない部分も多いですが、思いついたままに書いた文章なので、そういうものだと思って読んでみてください。
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実際に体験しないと、理屈では分かってても、その行動は自分の選択肢に入ってこないよね〜と飛行機に超久々に乗って思ったりした。だって、いままで飛行機に乗ってどっかに行くっていうこと自体、あんまり考えたことなかったし。やっぱり子どもの頃に色んな体験をするのって大事だな。
「飛行機に乗ってどこかに行く」っていう選択をするための潜在してる心理的負担が、経験が少ないと大きくなる。これは何にでも当てはまることで、“慣れ”や“習慣づけ”が大事っていうのはたぶんこういうことなんだろうな。
ということは、おれの行動力の原点は父親が昔からいろんなところに連れていってくれたところなんだろうな。それを見て体験して育ってるから、何かを企画したり起こしたりする心理的な負担があんまりなくて、ポンポンいろんなことができるんだろうな。
逆に勉強の面は、勉強が嫌いになったことからくる勉強習慣の崩壊と、自己肯定感の低さの学習性無気力スパイラルで、行動するための心理的負担が極端に大きくなってたんだろうな。褒めればやる気が起きるし、それを続ければ、いつしかその行為は習慣になって、子どもが生きていく上での大きな武器になる。
親がなにかをしてみせると、子どもがそうなりやすいっていうのはこれだな。貧富の再生産もここだろうし。
何事においても、“手本”は、この心理的負担を減らす役割もあるんだろうな。
行動力のある人のところにはどんどん行動力が集まってくるから、何事も一歩踏み出すことが大切だなあと実感した。
ていうか、人間が関わる物事はだいたいぜんぶこれだな。トライアンドエラーを繰り返してたら、経験値も貯まるし心理的な負担も減っていくし、いいことずくめだな。
あとエラーが出たときに、「どうせ俺なんてこんなもんなんだ」スパイラルにはまらないようにする、いい意味での鈍感力も大切だな。まあこれは自己肯定感が高ければ、「でも俺ならできる!」と思い直して成功するまでやるんだろうな。
成功者とか社長になった人が、口を揃えてこんなことを言うのも皮肉な話だな。結局、育ちが良かったり、容姿が優れてるとかで自己肯定感が高い人間ほど成功しやすくなってる。世の中そんなもんだね。
じゃあ自己肯定感を高めるにはどうすればいいんだろう。子どものうちは、環境を自分で変えられない以上、それ次第になっちゃうからまあもう仕方ない。親ガチャ。で、どうも大人になってから自己肯定感を高めるには、愛着障害とかアダルトチルドレンを根本的に治していく必要があるらしい。要は、本来子どものうちの適正な時期にに育つはずだった心理的な部分が、いろんな要因で育たなかったことが原因で、大人になってからおこるいろんな心の病。ビバ家族社会学。でも、このへんの心理的な病を治療するためには、例えばカウンセリングを受けてる最中に、カウンセリングを受けてる自分を上からみて笑ってる、自分のスタンドを倒さなきゃいけないんだよね。だいたい、カウンセリングを受けてる自分を客観視してる時点で、それはカウンセリングじゃなくて、「ショートコント カウンセリング」でしかないんだよな。不毛な時間だね。
で、この“スタンド”が要は“自意識”という奴で、自己肯定感を損ねてる主原因はこいつ。常に何かの行動をしようとする度に、後ろ指を指して笑ってくるこいつ。大人になる過程で、難しい家庭で育ったり、いじめられたり、理不尽な目にあったことで、歪んでしまったこいつ。こいつが自分自身を肯定してくれたり、応援してくれることこそが、自己肯定感を感じるということなんだと思う。
じゃあどうしたら自意識は自分を肯定してくれるようになるのか。極端な例を挙げれば、サイケ系のドラッグを使って自意識に会いにいくのもひとつの手だと思う。本当に。それができれば一番手っ取り早いだろうしね。ただ、なかなかそれは難しい。
から、いま俺は自意識と折り合いをつけるために、行動の基準を「人がどう思うか」じゃなくて、「自分がどう思うか」に移す努力をしてる。思い返せば、物心ついてからの人生はずっと、「人からどう思われるか」を尺度に生きてきたな。まあ主原因は中学受験の時の親との関係だったり、中学入ってからのあんまり恵まれなかった交友関係だったりするんだろうけど。「面白い奴でいよう!」「良い彼氏でいよう!」「良い先輩でいよう!」と。つまり、自分の人生なのに、主体が自分じゃなかったということ。そりゃ人間的な魅力も薄いわな。
で、この「人から〜」の「人」っていうのが何かというと、これがさっきから話してる「自意識」なんだな。バグった思春期だ。
なんか、思い返せば、「面白い奴でいよう!」とおもってやってきた、ピエロ的な、道化的な笑いは自分を傷つけてたな。自分を蔑んでまで笑いをとるって、なあ。あと、「いい彼氏でいよう!」としたせいで、付き合ってた人ともどっかフワフワした関係性だったし。俺が思ってるだけかもしれないけど。「いい先輩でいよう!」も、まあ確かに大なり小なり達成はできたかもしれないけど、それでもいろ〜んな後輩から「先輩として尊敬してます」とか言われるし、なんか壁を感じるんだよなあ。まあそういうもんかもしれないけど。わからんな。
あと、自己肯定感が低い状態が続くと、人から蔑まれるベースがある環境自体に、ある種の居心地のよさを感じてしまう部分があって、それが極まってた大学一年の頃に麻雀にハマったのがまずかったなあ。そっからズブズブそういう環境に落ちていったし。あのバイトとかね。いる人間全体が蔑まれる環境は、「自分だけが蔑まれるわけじゃないんだ!」と思えて居心地がすごく良かったんだよね。なんなら、「自分以下のどうしようもない人間がゴロゴロいる!」と思って、超歪んだ自己肯定感も満たせたしね。まいった〜。
そういえば、最近腑に落ちたことがあって、昔は感情がかなり薄い人間だったし、いまでもそれに苦しんでたりするんだけど、それは結局、「人からどう思われるか」っていうことを第一に生きてきたから、「自分がどう思うか」っていうのの主たる“感情”の持ちようがなかったんだろうなと思った。だからこそ、こないだのSCUMSのライブで
SCUMSの再結成、あのライブは リアル だった 高校生の頃、文化祭の終わりに涙を流せなかった自分が、ずっと欲しかったものだった 幸せだった pic.twitter.com/L7VOOsBmTc
— ハト (@nczm6191) February 10, 2019
っていうツイートをしたのはまさに、「俺がこのライブを楽しいと思えればそれでいいんだ!」と思ってやれたし、そのときになんとなく、自意識と一体化して、自分の人生を生きてるように感じたからだったんだよね。リアル。それまでは、ステージに立つ前は常に「失敗したらどうしよう」で頭がいっぱいだったし、ライブ終わったあとも「あそこ失敗したな…」ってことばっかり考えてたし、とにかくステージが苦手だった。そんなんでいいパフォーマンスができるはずないのにね。
まあ要は、「自意識と折り合いをつけたり、一体化したりすることが、自己肯定感を高める第一歩になった」っていうことでした。
で、この自己肯定感がちゃんとある人のことを、「自信のある人間」「自分の人生を生きてる人間」というらしくって、どうもこの人たちには、人間的な「魅力」が宿るらしい。人を惹きつける力というか、そういう人のところに、物や人は集まってくるらしい。すごいことだよほんと。願わくば、いつかはそういう人間になって、アメリカンドリームを掴みたい。
ただ、自信があるように見える奴も中にはいて、自信過剰ゆえにモラハラを働く輩も大勢いて…典型的な九州男児像というか…。それは本当の意味での自信ではなくて、人を押さえつけたり威圧することで自分を大きく見せようとする愚かな虚栄心なのかもね。そうはならないようにしたいねホント。
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追記①
って書いた日の夜に読んだ記事がこれで、
「自分の都合ばかりを優先しない、エゴのない恋愛がホンモノ」
「(そんな恋愛をするためには)自分の軸を持つことですね。日ごろから自分の選択を大切にしている人は、相手の選択も尊重することができますよね。そういう人同士なら、ホンモノの恋愛ができると思います。」
「日常生活のなかには、選択の機会がたくさんあるじゃないですか。たとえばごはんを食べるにしても、『なんでもいいや』じゃなくて『自分は何を食べたいんだろう?』と考えたり、飲み会も『なんとなく』ではなくて明確な理由を持って参加してみたり。そんな小さなことでもいいので、ふだんの生活の中で自分の意志を大切にすると、自分の『軸』が生まれてくるんですよ。」
「素敵なパートナーに巡り合うためには『自分はなぜこれが好きなのか/嫌いなのか』が言語化できて、自分の選択に自信を持てる人になるべきだと思います。」
って森林原人が言ってて、ああやっぱりそういうことなんだな、と確信を強めたりした。
なんか、去年まで付き合ってた人、自分ではすごく尊重して、尊重し合ってるつもりだったけど、全然そんなことなかったんだな…ああ…。
追記②
改めて、自分の服装や聴いてる音楽が、「人からどう見られるか」のアイテムになってないか、「自分がいいと思うか」を基準に選べているかを考えたりしてる。まあただ、なかなかこのへんは切り離して考えるのは難しいのかな〜と思ったりもしてる。
追記③
一時SNSを全部やめてたのは、SNSがおれにとっては自意識をくすぐるツールに成り果ててたからで、安易な承認は身を滅ぼすな〜と切々と感じたからでした。
追記④
あと、国民性も確実にあるだろうね。出る杭を打つ農耕民族の成れの果てというか。メリケン共が謎の根拠の無い自信に溢れてるのは、唯一信じる神がいて、個性こそ正義みたいな価値観があるのかは知らないけど、そういうのがあるからだったりして。人の行動をケチつけたり笑ったりするのって、自分もそれをできなくなるって意味では、自分の首を絞めてるだけなのにね。京都人。云々。
追記⑤
サボローって自意識だな…。これはまたおれとは種類が違う気はするけど…。
追記⑥
そういえば、ここ数ヶ月いろんなことを考えた原点は、若林の「ナナメの夕暮れ」を読んだことだったなと思い返したりした。「春日に子どもが集まるのは、自分に自信があって、それゆえに余裕があるから。」なんて、まさに、まさにじゃんね。
追記⑦
Togetterのお気に入りを遡ってたら、この記事を書くに至った諸々のソースが出てきて、インターネットがあって良かった〜とちょっと思ったりした。
追記⑧
自己肯定感が低いと、せっかく褒められても、それを真正面から受け止められなくて受け流しちゃうから、受け止めてさらに自己肯定感を上げていける人とは生きやすさが全然変わってくるし、まずは自己肯定感を上げるところから始めていきたいすね
— ハト (@nczm6191) March 6, 2019
願わくば、幸せに生きてえな
追記⑨
これこれこれこれこれ!!!!!!!!!!